アニメ

 五条さんが反応くれました。なんかこそばゆいです。
 ばんきょうさんやオキ君が言ってたことだけど、芝居って最初に何を見るかで、はまって今後も良く見に行くか、それともまったく見ないか、に別れちゃうそうですね。アニメも似たような感じかも、とちょっと思います。
 たぶん僕はアニメ歴で言うと一般の人より長いかと思うんですが、それもあれだ、幼少期人格形成時に「おこんじょうるり」「南無一病息災」、他には「蒸気船ウィリー」や「くもとちゅうりっぷ」、時期は飛ぶけどジブリでは「名探偵ホームズ」「未来少年コナン」を繰り返しみて育ってきたってそういう世界でして、同世代のアニメヲタともちょっと違うタイプだと思うんですね。やっぱり元々は、映画における表現技法の一つとして見てたわけですわ。中学卒業したあたりでアニメを見なくなったのも、そういう視点から違和感感じてたかなと思うのです。
 でも、アニメってそれだけじゃないのかも、って気付いたのは先日のアレなんですが。アニメ黎明期、それこそ「蒸気船ウィリー」、日本では「くもとちゅうりっぷ」の時代では声優なんてなくてアニメーター1人の神がかった演出が全てでした。だから個人の息づかいというのが嫌でも聞こえます。だからそれはそれで制作者の「顔」が見えてくるんですな。逆に僕らの世代では声優が神扱いされてる部分があって、アニメーターとか演出とかあまり知られてなかったように思います。(僕がしらんかっただけかもしれないけど)すると、「声優」という人が「声をあてている」だけであってどの顔を見ればいいのかわからなくなってくるっていうか、有名になりすぎた声優の顔とキャラクターの顔がごっちゃになるんですね。そこが五条さんの言う乖離なのかも。
 でも最近って結構違いますね。年取ったせいもありかもしれんけど。芝居において舞台作家、演出家が役者と協力しあって一つの舞台を作るように、アニメも作画家、アニメーターが声優と一つになるような仕事になっている。そこにはたとえば役者が舞台で見せる、その人とはまったく「別の顔」が見えるのと同じように、アニメでも作画によるキャラというでもなく、声優というでもなく、一つの大いなる「でっちあげ」が浮かんできます。たぶんメディアとして考える上で、見るべきはそこなのかなと。
 なんかわからんようなってきた。五条さんはノルシュテインの「話の話」って見たことあります? オススメ。たぶんコレみたら多少その手の乖離な感覚が払拭されるのではないかと。


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